ラルマンは1865年、フランスを離れ米国、
コネチカット州アンソニアに移住する。そこでさらに改良した自身の自転車を作成し、公開する。1866年4月にペダル式自転車に関する最初で唯一の
特許を申請し、11月に認可されている。ラルマンの図には
ベアリングが使用されており、くねくねした
フレームとあわせて、
デニス・ジョンソンの製作した
ダンディ=ホーススタイルに大変よく似ている。違いは、ペダルとクランクが付加されていること、さらに、フレームの上部に細長い鉄板を
ばねとしてのせ、その上に
サドルを取り付けていたことで、これにより快適な
乗り心地となっていることだった。
この自転車は米国の製造業者には興味をもたれなかったため、ラルマンは1868年、パリに戻っている。この時、フランスではミショー型自転車がブームとなっていた。これが欧州に広まり、米国に渡る。ラルマンも1880年以前に、再び米国に渡っている。1880年というのは自転車の
特許権侵害に関する訴訟が起こされた年である。ラルマンはラルマンの特許を購入していたこの訴訟での原告、
アルバート・ポープ側の証人として法廷に立っている。ラルマンは
ブルックリンに居を置き、ポープの下(もと)で働いていた。ラルマンは1891年にボストンで亡くなっている。47才だった。