事変は、7月の
盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の
華北地方)周辺へと拡大し、部隊衝突は8月の
第二次上海事変勃発により中支(中支那、現中国の
華中地方)へ飛び火、やがて中国大陸全土へと飛散して行き、大日本帝国と
中華民国とは次第に戦争の様相を呈していったが、12月までは、双方とも
宣戦布告や
最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には
戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない
蒋介石側にとっても不利とされたのである。
戦後は徐々に「日中戦争」という呼称が広まった。これは日中双方が「事変」としていたが、事実上の戦争であるとの歴史学会による学説、さらに主として
日本教職員組合など教育現場や
マスコミが、占領軍(
GHQ)や
中華民国・
中華人民共和国両政府の「中国を侮蔑するニュアンスを含む」とする意向をうけて「
支那」という言葉の使用を避けた為である。ただ、英語での中国Chinaはローマ字読みだと「チナ」とも読める。また防衛庁防衛研究所戦史室(現在の防衛省
防衛研究所戦史部の前身)や
厚生労働省援護局、準公式戦史である『
戦史叢書』、
靖国神社や各県の
護国神社では公式に「支那事変」の呼称を使用している。