その次の
米内内閣でも留任した。しかし、天皇から内閣への協力を厳命されていたにもかかわらず、日独伊三国同盟締結に絡んだ陸軍の命により単独辞職、後任陸相も出せず米内内閣瓦解の原因となった
[畑は当時の参謀総長だった閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断ることができなかった。しかし、閑院宮の顔を立てたいと考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていた。しかし、米内にも圧力がかけられたらしく、最終的には辞表を受理してしまったという経緯があった。]。このことを畑は生涯弁解せず、陸軍の横暴の片棒を担いだという汚名を引き受け続けた。また、後年の
東京裁判においても、この米内内閣倒閣の件が、畑の罪状において最も重視されることとなる。