しかし武将としては一流、功績も数え切れぬほどの功労者であるのを良い事に次第に傲慢な態度が目立ち始めた。例えば、東山に山荘を建設しようとして、その地にあった
菅原氏の墓所を掘り返し、これに対して
菅原在登が異議を唱えると、在登を殺害したほどであった。このような公家や寺社と武家との対立を避けようとした足利直義と、武家の勢力伸張を第一と考えた高師直が、幕政の主導権をめぐって対立し始める(→「
観応の擾乱」を参照のこと)と、師直派の中心人物と見なされる。師泰は師直と協力して一時は直義の追い落としに成功し、直義は出家し政務を退いた。そのうえで直義の養子・
足利直冬を討伐するために
中国地方へ遠征しようとするが、
1351年(正平6年/
観応2年)、
石見国に在陣中に直義の南朝への帰順と挙兵を知って都に帰還し、尊氏に従って直義と戦った。しかし
摂津国で直義との戦いに敗れ、和議の条件として師直と共に出家する。このとき、道勝と号した。そして同年2月26日、直義の手で京都へ護送される途中、直義派の
上杉能憲により、同国武庫川で師直や息子の
高師世ら一族と共に殺された。